1月に聴いた音楽。

昨年1月だけで終わってしまった備忘録的マンスリーレビュー。今年はどうにか1年通して続けたいと思い、再開。以下、1月によく聴いた音楽を。

 

Curtis Mayfield "There's No Place Like America Today" 

 カーティス・メイフィールドの75年発表のアルバム。オウガ・ユー・アスホールの出戸さんが「私を構成する○枚のアルバム」の中の一枚として挙げていて興味を持って聴いたのだが、これは凄いアルバム。必要最低限の音しか鳴らさないようなミニマルなファンクサウンドとカーティスのファルセットボーカルの緊張感が相まって、とてつもなくヒリついている。その中にあって、よく言われているようにM−3"So in Love"の光が差し込むような温かさが良い。ほっと一息つくというよりは、この一曲によりアルバムが一層引き締められているという感じであるが。個人的なベストトラックはM−4"Jesus"。ゴスペルチックなコーラスが印象的なこの曲の美しさを前に、今まであまり経験したことのないような敬虔な気持ちになり、全ての音楽は広い意味で宗教音楽だと考えることは可能だろうか、などと思ったりした。

 

サニーデイ・サービス "夏のいけにえ"

サニーデイ・サービス in 日比谷 夏のいけにえ [DVD]

サニーデイ・サービス in 日比谷 夏のいけにえ [DVD]

 

2017年8月27日の日比谷野音でのサニーデイライブの映像作品。この日のライブは残念ながら行けなかったのだが、セットリストを見てとても羨ましい気持ちになったのを覚えている。いざ映像作品となった本作を観てみると、その気持ちがさらに強くなった。曲目、演奏、シチュエーション、どれも完璧。段々と日が沈み夜になっていくという「時間の流れ」がその時間が二度と戻らないかけがえのない時間であることを示し、逆説的に「永遠性」を獲得する。この作品にビデオ画質を選択したことは最良の選択だったと言えるだろう。2017年という紛れもない現代での出来事でありながら、この作品が捧げられたトビー・フーパーの「悪魔のいけにえ」がそうであるように、いつどこでそれが起きたのかわからない、その作品の中でしか存在し得ない永遠の時間がこの作品には閉じ込められている。

 

Belle and Sebastian "How to Solve Our Human Problems, Pt.1"

HOW TO SOLVE OUR HUMAN PROBLEMS, PART 1 [12INCH EP] (INSERT) [12 inch Analog]

HOW TO SOLVE OUR HUMAN PROBLEMS, PART 1 [12INCH EP] (INSERT) [12 inch Analog]

 

 ベルセバのアルバム先行EPシリーズの1枚目。EPを揃えればアルバム収録曲が全て聴けるというもの。前作の"Girl in Peace Time Want to Dance"で四つ打ちのダンスナンバーに挑戦するという新境地を開いたベルセバだが、このEPの中でもいち早く公開された"We Were Beautiful"もドラムンベース的なトラックに(ベルセバにしては)ハードなアレンジが施されたシンセポップであり、聴いた当初は結構面食らった。正直言ってこの曲が入り口だったら今のようにベルセバを好きになったとは思えないが、その足跡を多少なりとも追ってきた身からするとこれもアリなんだと思える。EP1曲目の" Sweet Dew Lee"は昨年の来日公演でも演奏されていた一曲で、ほんのりとサイケデリックでダンサブルな一品で、"We were Beautiful"がある意味飛び道具的な新境地の一曲であるとするなら、これはこれまでの延長戦上にありながら新境地を感じさせる名曲と言えるだろう。スティーヴィーのパートからスチュアートのパートに移るときに立ち上がるえも言われぬ感情にベルセバを感じる。

 

Belle and Sebastian "How to Solve Our Human Problems, Pt.2"

 アルバム先行EPシリーズの2枚目。もはやベルセバは内省的な文学青年によるネオアコバンドではないのだと改めて確信させられる一枚。"I'll Be Your Pilot"の美しいメロディーよ。

 

・Mount Kimbie "Love What Survives"

Love What Survives [帯解説・歌詞対訳 / ボーナストラック1曲収録 / 国内盤] (BRC553)

Love What Survives [帯解説・歌詞対訳 / ボーナストラック1曲収録 / 国内盤] (BRC553)

 

昨年聴き逃していた1枚。 無茶苦茶かっこいい。生音に重きが置かれたビートやキング・クルールのゲストボーカルから多分にクラウトロックニューウェーヴ、ノーウェーヴの要素を感じる。所謂パンクと呼ばれる音楽のノーマルな音楽性よりもポスト・パンクの時代に現れたバンドの自由な空気にこそパンクを感じるものだが、マウント・キンビーのこのアルバムはその意味でパンキッシュ。ヒリついた空気に満ちているが、案外キャッチーでもある。低音の鳴りも素晴らしく、ライブ観てみたかったなと今更になって思っている。

 

・King Krule "The Ooz" 

The Ooz [解説・歌詞対訳 /国内盤] (XL872CDJP)

The Ooz [解説・歌詞対訳 /国内盤] (XL872CDJP)

 

去年聴き逃していた1枚。 マウント・キンビーのアルバム同様にパンクを感じさせる1枚。M-1"Bisucuit Town"のダウナーなヒップホップ的なビートが無茶苦茶かっこいいのだが、アルバム通してで聴くとビートミュージックというよりは寧ろ破滅的な酔いどれシンガーソングライターによる楽曲集という趣を感じる。ヒップホップもあればニューウェーブもありアシッドフォーク的な楽曲もある。破綻すれすれのところで成り立っているこの感じは相当危うい。とにかくダウナーでヒリついた空気にそれだけで好きになれるが、人によってはこのダルさは耐えられないかもしれない。

1月に聴いたディスクス。

 

I See You [帯解説 / ボーナストラック2曲収録 / 国内盤] (YTCD161J)

I See You [帯解説 / ボーナストラック2曲収録 / 国内盤] (YTCD161J)

 

 昨年末から楽しみにしていたThe xxの新譜。こうだったらいいのにな、という聴き手の期待に見事に応えた快作。期待通り過ぎて面白みがないかと言えば全くそんなことはない。ロミーとオリヴァーの憂いのあるボーカルはそのままに、ジェイミーのソロを経て届けられた本作はよりダンサブルになり、快楽的でありながらブルーであるというxxならではの捻れは他では替えが効かない。スターダムに登りつめるグループはかくあるべし、という風格すら感じさせる堂々たるサードアルバム。大好き。

 

 リップスの4年振りとなるアルバム。前作『The Terror』と前々作『Embryonic』で多幸感中毒のリスナーを徹底的に裏切ったリップスだが、今作はサイケで野蛮で実験的なリップスが好きなリスナーもウェインのしゃがれ声で歌われる美メロを愛してやまないリスナーも、どちらも満足させるような一作になっているのではないだろうか。基本的には前作の反復の手法を踏襲しつつも光を差し込むかのような歌モノが随所に差し込まれ、ああこのリップスを待ってたんだと嬉しい気持ちにさせられる。リップスの歌はまるで夜明けのようなのだ。

 

結構頻繁に新作を出していたのは知っていたけど最近作までは追っていなかったアンビエント・ミュージックの巨匠ブライアン・イーノの新譜。びっくりするほど変わっていなかった。30年以上前の『ディスクリート・ミュージック』と取り替えても初めて聴く人はどちらが新譜かわからないだろう。逆に言えばそれだけ普遍性のあるジャンルを創出してしまった偉大な人なわけで。なので、イーノの過去のアンビエントシリーズを聴くときと全く一緒のノリで、本を読むときや寝る前などのふとしたときにひたすら垂れ流していた。何も新しいことだけがいいことではない。

 

ケアフル・マダム

ケアフル・マダム

 

 今年一番初めに買った新譜でたぶん一月に一番多く聴いた一枚。乱暴に言ってノー・ウェーヴ+フェイク・ジャズ+ブラジル(ってそのままアート・リンゼイの辿った足跡じゃないか…)。ビートが効いていてギターもノイジーなんだけど、そこはかとないエレガンスが漂うのはやっぱりこの人の歌声があるからだろうか。ただひたすらノイズギターと喘ぎ声だけが流れているような曲から清涼感のあるボサノヴァまで、振れ幅の大きい音楽をさらりと一枚のアルバムにまとめ上げるセンスが憎い。

 

Broken Knowz [帯解説 / 国内仕様輸入盤CD] (BRTCLR18)

Broken Knowz [帯解説 / 国内仕様輸入盤CD] (BRTCLR18)

 

 昨年の暮れに出たデトロイト・テクノ新世代のデビュー作。生音のサンプリングを中心とした一筋縄ではいかないリズムがおもしろいリズム・オリエンテッドな一枚。初めデトロイトっぽさをあまり感じなかったのは、ソウルミュージックというよりはさらにその先のアフリカ音楽を参照にしたかのようなトライバルなリズムゆえだろうか。とはいえ、起源に遡行した結果宇宙的な広がりを持ってしまったこの音楽は、まんまアフロ・フューチャリズムであり、正しく、新しくデトロイト・テクノしているのだと聴き込む内に理解してきた。

 

オウガ・ユー・アスホール『ハンドルを放す前に』

ハンドルを放す前に

オウガ・ユー・アスホールの新作『ハンドルを放す前に』を繰り返し聴いている。前作の『ペーパークラフト』も抑制の効いた作品だったが、今作においてはさらに音の数が減り、まるで最小限の音でポップスを成り立たせようとしているかのような野心すら感じさせる。ゴチャゴチャとした雑多さを整理して丁寧に配置するこの新作を聴いていて思い出したのは、意外にも相対性理論だった。相対性理論が『シフォン主義』の雑味を徹底的に削ぎ落としクリアーにすることで獲得した『ハイファイ新書』のある種の円熟味は、オウガが今作で獲得したメロウネスととても似通っている。試しに今作の中でも屈指のメロウな一曲、『あの気分でもう一度』をやくしまるえつこの声で脳内再生してみると、違和感なく聴けてしまうのは自分の妄聴だろうか。もちろん『ハイファイ新書』と『ハンドルを放す前に』の近似性はこの作品の一つの側面に過ぎない。まるでトランプのタワーを丁寧に崩さないように作り上げられたかのようなこの作品からは、その身に纏った空虚な雰囲気以上に過去の音楽の遺産を聴き取ることができる。

例えばゆらゆら帝国。オウガはよくゆらゆら帝国のフォロワーとして語られてきた。そんなに言うほどでもないだろうとその度にわたしは思っており、今でもその思いは変わらないのだが、それでも尚、今作を聴くとゆら帝のことを思い出さずにはいられなかった。例えばM2の『かんたんな自由』は、『夜行性の生き物3匹』のオウガ流のカバーのようにも感じられはしないか。『めまい』の頃の坂本慎太郎はまだファズギターを掻き鳴らしていたが、ソロに移行してからファズギターを封印しクリーンなトーンで奏でられる彼の彼岸の音楽を聴いていると、ゆら帝が続いていたらもしかすると今のオウガのような音楽性になっていたかもしれないと夢想せずにはいられないのである。あるいは『空洞です』所収の『ひとりぼっちの人工衛星』の世界を外側から眺めているかのような孤高感も今回のアルバムの空気と通底しているかもしれない。共通しているのはやはりメロウネスだが、ゆら帝のメロウネスは情念が感じられたのに対し、オウガのメロウネスは徹底的に乾いている。メロウとはその音楽に身を委ねていたいと感じさせるような豊かで繊細で心地よい繰り返す波のようなものである。オウガの曲は昔からメロウな曲が多かったが、今作においてもその充実度は際立っている。

音響的な側面に目を当ててみよう。今作のムードはある種の疑似楽園感が漂っている。所謂せーので合わせたバンド感が希薄で、音響が醸し出すムードに拘って作られた作品であることは疑いようがない。ボコーダーを使用したM10の『もしあったなら』やM8の小曲『ムードに』から醸し出されるムードから想起させられるのは、往年のエキゾチカ/ムード音楽の疑似楽園感である。しかし、オウガのエキゾチカは例えば一時期のceroがエキゾチカロックを標榜してフィクショナルな作品を出していた頃のそれとは全く異質である。ceroがエキゾチカを咀嚼、解釈して生み出した作品群は、どちらかというと音楽ジャンルとしてのエキゾチカというよりは考え方としてのエキゾチカだった。対してオウガから感じられるエキゾチカは、より愚直にエキゾチカ/ムード音楽を音楽の要素として取り入れているように思える。具体的に言って今作のムードから想起させられるのはジョー・ミークだった。エコーや深いリバーブを多用したバスルームサウンドと呼ばれるサウンドを生み出したイギリス人プロデューサーの彼が残した『アイ・ヒア・ア・ニュー・ワールド』は、早すぎた音響作品としてカルト的な人気があるが、そこから聴こえてくる音楽はロックやポップスとはかけ離れたヘンテコリンな音楽である。能天気な表情をした狂気に包まれたこの作品は、おそらく商業的な成功を度外視してひたすらな自己の内面と向き合って作られた音楽だと想像できるが、そこから醸し出される彼岸的なムードはとてもこの世のものとは思えない、もうひとつの世界の音楽のようである(タイトルからして『アイ・ヒア・ア・ニュー・ワールド』である)。そこから聴こえてくる音に耳を向けてみると、多用されるのはエコーやリバーブなどのエフォクトのかかったボーカル、得体の知れない効果音、チープなシンセサイザー、スライドギター、そしてポコポコとした打楽器の音である。もちろんそれだけで成り立つほど単純なものでもないが、オウガはジョー・ミークに代表される実験的ムード音楽の遺産を今作で大いに活用しているように思える。今作の彼岸的なムードはそうした点に負うところが大きいだろう。

ミニマルという点にも目を向けてみよう。オウガの音楽、特に前作と今作を特徴づけているポイントとして、ミニマルというキーワードがあることは疑いようがない。ライヒやテリー・ライリーによるジャンルとしてのミニマルミュージックを思い出してみるまでもなく、最小限の音と反復で音楽を成り立たせるミニマルミュージックは物語性が希薄である。現代の日本のミニマルミュージックというと個人的にはすぐにgoatが思い浮かぶが、彼らの音楽に物語はなく、あるのは音の快楽のみである。オウガは彼らのようにストイックにミニマルミュージックを追求するのではないが、音の快楽へと誘うミニマルという要素をポップミュージックに導入する。ポップミュージックは本来物語性から逃れられないものであり、オウガの音楽もそれに無関係ではないが、ミニマルの手法を導入することによって安易な帰結(クライマックス、みんなが同じところで拳を突きあげるような単純さ)を回避する。今回のオウガの音楽は特にカタルシスが少なくどこかぼんやりとしており、ともすると一聴するだけでは印象が薄い地味な作品であるかもしれないが、上に書いたよう緻密さから来るメロウで彼岸的なムードはとにかく強烈である。物語は共感や反発を生むが、ムードはじわりと生活に侵食してくるものである。

ここまで書いてみて、オウガはつくづく孤高のバンドだと思った。しかし同時に、あくまでもそこには「日本のロック(ポップ)バンドとして」という前置きが付き纏うことに気づく。音響に凝ろうとも、実験的であろうとも、ポップミュージックの磁場は強すぎるのだ。そこに歌がある限り本当の孤高になることなどできやしない。そして、だからこそオウガのようなバンドは面白いのだと言える。ポップスの磁場に引き摺られながら、オウガはどこまで遠くに行けるのだろうかと、早くも次の一手に期待している。

  

ハンドルを放す前に

ハンドルを放す前に