あだち麗三郎『ぱぱぱぱ。』

ぱぱぱぱ。

 あだち麗三郎さんのソロ3作目。片想いのメンバーとして、あるいはceroの特殊サポーターとしてなど、多くの場でマルチ奏者として活躍しまくっているあだちさんだが、わたしはあだちさんの真価が最も発揮されるのは「歌うたい」としてであると思っている。それは前作の『6月のパルティータ』が発売された時のレコ発ライブで初めてあだちさんが歌をうたう姿を見た時から揺るがない。こうした比喩が適切であるか甚だ不安であるが、あだちさんはまるで霊媒者のようでありセラピストのようでありマッサージ師のようであった。日々鈍化していく自分の感覚があだちさんの歌う姿を見ることによって蘇り、精神が浄化し、身体が楽になっていくように感じたのである。なぜだろうか?それはおそらく、あだちさんがあまりに自然に「歌をうたう」という行為を謳歌しているように見えたからである。

そもそも論になってしまうが、歌の「上手/下手」いうのはおそらく対象となる何かに「似ている/似ていない」ということだと思っている。その音程は適切であるか?その声量は適切であるか?その声質は適切であるか?そのテクニックは適切であるか?等々。卑近な例で言ってしまえば、要するにJPOP〜カラオケ文化のことで、ある一定の枠組みの中で歌を適切にうたうことができる人というのは存在するし、そうした人の歌を聴いて「上手だなあ」と嘆息することもある。しかし、歌は「適切さ」を競うゲームとして限定的に存在するものではなく、もっと万人に開かれたものである。日々の生活の中で生まれる喜怒哀楽を「歌」として捉えること。あるいは花鳥風月を「歌」として捉えること。あるいは目を閉じて頭を空っぽにしたときに聞こえる音、見える景色を「歌」として捉えること。そこにはモデルとなる「対象」は存在せず、自然発生的に生まれる「歌」には「上手/下手」という概念は存在しない。

あだちさんの歌に感じるのはそうした「上手/下手」以前の原初的な歌の力であり、本作のタイトル『ぱぱぱぱ。』はとても象徴的である。「ぱぱぱぱ」という言葉は何の意味も表さない。それはただの音の響きである。試しに「ぱぱぱぱ」と呟いてみよう。上手に出来ただろうか?もし上手に出来なかったと思ってもそんなことを気にする必要はない。ぱぱぱぱ、と呟くことに上手も下手もないのだから。今度は唇の動きを意識してもう一度呟いてみよう。上唇と下唇が重なり微かな破裂音とともに空気が吐き出される音。ぱ、ぱ、ぱ、ぱ。「ぱ」の響きに対してさっきよりも意識的になれたら、今度は自分なりに音程をつけたり音を引き延ばしてみるといい。きっとそれはどこかで聴いたことのある、それでいて何にも似ていない「歌」になっているに違いない。

音楽は音楽が鳴っている場所にしか存在しない。しかし、ジョン・ケージが無響室で「無音」の音楽を発見したように、あるいはドラムの使用を禁じられたトリニダード・トバゴの黒人達がドラム缶を叩いてスティール・パンを発明したように、どこからでも音楽は生まれるものである(あるいは鳴っている音楽に気づいていないだけである)。名の残っている者、残っていない者問わず、あだちさんは「ぱぱぱぱ」というマジカル・ワーズをもってして、音楽のないところから音楽を生み出していった(あるいは既にそこで鳴っている音楽を発見していった)そうした先人達の魂を受け継ごうとしているように思える。彼、彼女らには音楽の中でしか出会うことができない。逆に言えば、音楽が鳴らなくなったら、音楽に誰も気付かなくなったら、彼、彼女らに出会うことはできなくなるだろう。あだちさんの音楽が少なからずスピリチュアルな響きを持っていることは必然である。アルバムのラストを飾る「Harvest Moon」という曲で、あだちさんは「音楽の中で会いましょう」と誘っている。「ぱぱぱぱ」という魔法の言葉を教えられた今、それと呼応して一緒に歌わずにいられることなんてできるだろうか?(いや、できない!) さあ、耳をすまし、歌をうたい、いろんな人に会いにいこう。ぱぱぱぱ!