カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』における5つのキーワード。

▪️ヘールシャム

この小説の主人公であるキャシー、トミー、ルースが育った全寮制の学校。田舎の緩やかな窪地にあり、周囲のどこを見渡してもなだらかな野原が立ち上がっている。裏手の森の頂きには様々な恐怖の言い伝えのある森が広がっており、生徒たちに畏怖を与えている。例えば、友達と大喧嘩をして敷地外へ逃げ出した一人の男の子が数日後に両手両足を切り落とされた状態で木に結わえられて発見された、といような。保護官と呼ばれる先生と生徒以外にほとんど足を踏み入れる者のいない外部と隔絶された施設であり、一見普通の学校のように授業が行われているようにも思われるが、「芸術は人の心を映し出す」という教えのもとに、殊に図画の授業に力を入れており、そこで描かれた特に出来の良い絵はマダムと呼ばれる謎の女が主催しているらしい「展示会」に出品される。

 

▪️展示会/マダム

外部と隔絶されたヘールシャムにおいて唯一定期的に足を運ぶマダムと呼ばれる謎の女。背が高く、ほっそりとして、ショートヘア。灰色のスーツを隙なく着こなし、冷ややかな視線で生徒たちを遠ざけ、無論生徒と口を聞くことはない。当然、生徒たちのあいだでは様々な噂、憶測が生まれる。マダムの来訪が事前に知らされることはないが、数週間前から始まる準備によって、誰もがマダムの来訪に勘づくこととなる。保護官は生徒たちの作品を篩にかけ選別作業を行う。年少組、年長組の各学年から四、五作品ほど選び出されてビリヤード室に運ばれる。選ばれた作品は机の上に陳列され、その数日後にマダムがやってくる…。ある日、マダム来訪の噂を嗅ぎつけた生徒たちは一つの作戦を実行する。「お高くとまっている」だけだと思われていたマダムは、実は「わたしたちを怖がっている」という新説をルースが打ち出したのだ。その真偽を確かめるべく行われたのは、マダム来訪に合わせてただ近くを通り過ぎるというだけのごくシンプルな作戦。しかし、生徒たちがそこから得たのは自分たちがとてつもない「異物」としてまなざされる恐ろしい実感であった。「わたしたちはそれと知らずに、きっとあの瞬間を待っていたのだと思います。自分が外の人間とはとてつもなく違うのだと、ほんとうにわかる瞬間を」

 

▪️ジュディ・ブリッジウォーター『夜に聞く歌』

いかにも実在しそうな名前だが、この小説にだけ存在する架空の歌手。外部の世界と隔絶されたヘールシャムにおいて、唯一「物を買う」という行為が許されるのが交換会である。生徒たちは成績に応じて交換会のためのコインを支給され、 年に数回行われる交換会でガラクタの山の中かから各々の「宝物」を見つけ出す。そこでキャシーが掘り出したのが、ジュディ・ブリッジウォーターの『夜に聞く歌』というカセットテープだった。ジャケットには肩を剥き出しにして紫色のサテンのドレスを着たジュディがバーのスツールに座り、親しげにバーテンを見返している。カウンターに置かれた肩肘の先の指には一本の煙草が挟まれている。キャシーは唯一聞き取ることのできる「ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで」というリフレインに、ありったけの妄想を込めて繰り返し歌に聴き入る。キャシーの妄想とは、死ぬほど赤ちゃんが欲しいのに産めないと言われている一人の女性が奇跡的に子供を授かり、その女性が赤ちゃんを胸に抱き締め部屋の中を歩きながら「ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで」と歌っている、というもの。そんな歌ではないことをわかっていながら、そう信じることが心地よかった幼き日。ある日、どうせ一人きりだと高を括って赤ちゃんに見立てた枕を抱いて悦に浸りながらその歌を歌うキャシーの姿を覗き見してしまったマダムは、痛ましいその姿に涙を落とす。

 

▪️ポシブル

ヘールシャムの生徒たちは一体どこから来てどこへ行くのか? 自分たちの運命に薄々勘付く年齢になり始めていた彼らのあいだで話題となっていたのが、ポシブルという存在である。彼らはあるときに普通の人間から複製された存在である。外の世界のどこかには複製元が存在する。とすれば、その「親」と偶然出会うことは理論的にはありうること。ヘールシャムを卒業して外の世界に出掛けることができるようになった彼らは、どんなときでも自分の、あるいは自分の友達のポシブルに出会さないかと無意識に目を凝らしている。あるときはルースのポシブルがいたという先輩に連れられて遠くの街へ出掛け、あるときは自分のポシブルがいないかとポルノ雑誌にひたすら目を通す。しかし、クローン人間である彼らのポシブルが見つかることは決してない。「でもさ、わたしたちの正体がわかってたら、あの人、あんなふうに話かけてくれたかしら。『すみません、あなたのお友達はクローン人間の元でしょうか』なんて訊いたらどう?きっと放り出されてたわよ。わかってるんでしょ、みんな?だったら、なぜ言わないの。ポシブルを探したかったら、どぶの中でも覗かなきゃ」

 

▪️提供

ヘールシャムで育ち大人になった彼らはやがて自分たちの運命を理解する。自分たちはどうして生まれてどのように死んでいくのかを。あるいは、子供の頃にマダムから向けられた恐怖の視線の意味を。あるいは、「ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで」という歌が美しいおとぎ話にすぎなかったことを。あるいは、自分たちの親、ポシブルは存在しないということを。彼らの使命は「提供」である。「普通の人間」が延命するために臓器を提供するという使命。数回の臓器提供を行い使命を果たした彼らはそのまま死んでいく。提供者を介護することもやがて提供者となる彼らの役割である。ヘールシャムと変わらない隔絶された世界。その中でキャシーはルースの介護人となり、トミーの介護人となり、使命を果たした彼らを見送って、自分も提供者となり死んでいく。提供を使命として生まれてきた彼らにも人生があった。予め提供という使命が決められていた彼らと普通の人間とではどこに違いがあっただろうか?

 

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

 

 

Never Let Me Go

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